メンタルを鍛える為にヨガを始めたい方へ(所沢小手指のヨガ教室「こてさし ヨガの家」)

これまでのSNSやブログでの投稿ではどちらかというと、ヨガについての中の体の動かし方にフォーカスしている事が多かったのですが、メンタルを鍛えたい、鍛えるとは行かないまでもストレスを解消したいという方にもヨガはお勧めです。

写真は2012年に終了した、YTIC(インド中央政府公認ヨーガ療法士養成講座)の発表用スライドの一部です。現在のソフトとの互換性が無く見辛いですが…。

何故、体にフォーカスする事が多いかと言うと、これは過去の投稿でも少し触れたかと思いますが、心は嘘をつきやすいというのが一つの理由です。そして、ストレスを貯めやすい人は感受性が高かったり、真面目で責任感が強かったりする事が多く、心と向き合おうとすればする程、状況が悪化してしまう事も有るからです。感受性が高いと楽しい事も辛い事も人一倍、強烈に記憶されるのでヨガで癒されて深い幸福感を得れば得るほどそこから離れた時の辛さが色濃く記憶されてしまう事でしょう。ヨガのレッスンで感じた幸福感、リラックス状態を日常生活でも感じて頂ければ良いのですが、人に因ってはヨガの時間と日常生活が別世界の様になってしまい、ヨガが逃げ場になってしまう事も考えられます。今思えば私もヨガを始めてから2~3年位までは浮き沈みが激しく、心の拠り所としてヨガをしていました。

勿論、心の拠り所にする事が悪いわけでは有りません。但し、それは1つの段階と考えていると良いでしょう。

ヨガの哲学では、自分という存在を馬車に例えます。車体は肉体をあらわします。馬は諸感覚器官で、手綱は意思です。手綱をコントロールしている御者が「理智」です。車体で運ばれるのは「真我」と言います。真我とは自分という存在の最も深い部分であり、「観る者」とも言います。私たちが日常生活を送る上で五感を働かせて喜んだり悲しんだりしているのを真我はただ見ているだけです。肉体の次元で喜んでも悲しんでも私たちの根本は静かに観ているだけなのです。

私が依存する意味でヨガを拠り所にしていた時というのは、この「観る者」が居るから大丈夫という様な、主体性の無い感覚だったと思います。ヨガを学ぶ中で「観られる者」から「観る者になりなさい」と何度も教わっていたのですが、どんな感情を抱こうとも自分の存在の核の部分には何の意味もなくただ観られているだけなのだと、誰か別の人格に人生を丸投げした様な状態だったとも言えます。それでこの、「観る物」・「観られる者」という考えを理解したつもりでした。

ですが、「観る者」こそ自分なのだという事を分かっていなかったのです。「自分」という言葉は「我(ガ=ストレスのもと)」を表すので、苦しみから独立した「観る者」を自分と言うのは正しくないのですが…。ややこしいですね(;’∀’)興味の有る方は私の拙い文章でなく、ご自身に合った本を読んだり師を仰いでください。あ、私もインストラクターでした(笑)。私で良ければ哲学のお話もしましょう。

硬い話は抜きにして、気軽にヨガを始めたいという方は色々な体の動きを通してヨガの楽しさを味わいましょう!!

 

引用元メンタルを鍛える為にヨガを始めたい方へ(所沢小手指のヨガ教室「こてさし ヨガの家」)



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こてさし ヨガの家
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【定休日】不定期